「関心」とは?
いきなり横道にそれるように感じるかもしれませんが、ゲシュタルト崩壊という言葉があります。
それは、本来なら意味のあるはずの言葉に対して、その意味がわからなくなるようなものなのですが、細かくは調べてみてください。
今、私は「関心」という言葉に集中していく過程で、その文字を見つめていった先にゲシュタルト崩壊を経験したと感じました。
特に、「関」という文字に対してです。
「関心」について深めようと、その語源なり、成り立ちなり、AIに聞くなり、初動としてはいろいろな選択肢があるわけですが、私は文字通り「関心」という言葉に関心を寄せたのです。
ゲシュタルト崩壊は、以前から知っていましたが、言語について理解や考察が深まった今において、「関心」という言語も概念でしかなく、人間による創造物であるからには、それは、人間においての約束体系の上でしか成立しないものであり、実はあってないようなものとも言えるのです。
つまり、ゲシュタルト崩壊は、人間が無意識わかっている何か、言い換えると「本質」を直感しているような状態にも思います。
さて、崩壊は、形のあるものが崩れるイメージですが、もう少しシンプルに表現すると『有→無』とも言い換えることができると思います。
既成概念、固定観念、大前提、思い込み、それらがいったん無化することは重要なプロセスと思います。
しかし同時に、「関心」は有るのです。
この「関心」を考察する準備が整ってきました。
私はこのテーマを扱うに至るきっかけとなる場で「関心」という単語を使ったのですが、その時に私は主に気になっている、どうしていくべきか、などの対象として認識している話題について「関心」があると表現したのでした。
主に「関心」という言葉を使うとき、私たちは意識の向いてる対象に働く、思考や想像などがあげられると思います。
しかし、なぜ「関心」が有るかといえば、関心が何に立脚してその起こりがあるのか、言うなれば「関心」の出発があると思います。
また、「関心」には感情など思いの匂いもします。
そして「関心」は消えることもあります。「関心がなくなった」という表現もあるぐらいです。
関心はどこから来るのでしょう。
関心が働く時、自分はその対象との間にどんな関係や思い、ストーリーを描いたり、期待したり、しているのでしょう。
ここにきて「関心」の「関」に関わりという感じが用いられてることに合点がいきます。
「関わり」という言葉は、主体と客体など、2つの対象がなければ起こり得ない心の働きと思います。
「関心」から派生する、心の働きを言い表す言葉もたくさんありそうです。
関わる心、関わろうとする心、関わりたくない心。
心が関わることができる範囲は広大です。
その深さや硬さや速さは、まさに縦横無尽。
「関心」という言葉が出てくるに至る背景を考えてみたら、「関心」にまで心が意識を向けている対象と、その出発となるポジションは、まさに相対的に引き合う関係性にあるものなのでしょう。
「関心」から紐解く、相対世界の真理、対称性、矛盾。
何に「関心」が向いているかで、心のポジションが見えてきます。
どんな理由で「関心」向いているかで、そのポジション、差を取りたい、悟りたい現在地が見えてきます。
「関心」はやがて「執着」へと変わる気もします。
あなたはどう思いますか?
ここで「関心」には2種類あると思いました。
「受動的な関心」と「能動的な関心」です。
「関心」そのものは心の働きと思いますが、その心の関わりの性質として受動的なのか、能動的なのかで、関心を向けている対象との主従関係のようなものが見えてくると思いました。
受動的な関心は、無意識だったり、本能的だったりすると思います。
一方で、能動的な関心は、理由や意志のようなものが関係してくると思います。
しかし、受動的か能動的にもまた、自覚や混同など、複雑な話に発展するイメーがきたので、いったんここまでにします。
今日のテーマは「関心とは?」
「関心」という言葉について考えを深めていくにあたり、その範囲、すなわち限界もあるとここで思いました。
「関心」も言語である以上は、それを説明するための他の言語との関わりを無視できず、堂々巡りとなってしまいます。
さて、ここに至り浮かんできたのは「無関心」という言葉です。
この言葉は現代を語るうえでよく使うこともあり、その背景にある「あきらめ」も即座に浮かびます。
そう考えると「関心」は、まだ、オープン性がある状態ともいえるかも知れません。
しかし、その関心が限定的である場合、それはクローズでもあります。
関心の向かう先、関心の接続先、さらにその先の関心の働き。
健全な関心とは?
そんな疑問も生まれてきました。本来、どうあるべきなのか、どうありたいのか、私の「関心」に対する関心は、どうやらそこへ向かっていたようです。
関心が何なのか?
関心の仕組み、構造とは?
そして、関心が向かうべき方向は?
ここまでの話をまとめながら、さらに深めるならば、どうなるでしょうか。
関心の起こり、出発、震源地。
関わる心、心の関わり、心の働き。
仲間づくり。。そんな言葉がふと浮かんできました。
おそらく「関心」を一つの人格に例えるなら、関心はその範囲や深さ、細かさ、多様性、自由度、などどんどんと拡張し続けていくことに、喜びを覚えるのではと思います。
膨張していくイメージでしょうか。
しかし、関心は対象に集中すると思えば、圧縮していくイメージにも思えます。
圧縮、爆発、膨張、が心の動きならば、関心は本来、圧縮の方向性のように思います。
それを裏付けるように「関心を広げる」と言ったりもしますしね。
「関心」はネット機能のようなものなのでしょうか。
この範囲に興味を持つぞー、みたいな。
圧縮した先に、爆発ができない場合、それは間との出会いが起きていないということ。
また膨張が中途半端なら、またその範囲の関心に捕まり、圧縮へのサイクルが始まってしまうこと。
関心、それを正しく向けられるようになるには、関心の奴隷になっていては無理そうです。
関心も無関心もない、無概念から。
関心を生み出せるポジションに心がなってこそ、「関わる」を始めることができる。
その時、「関心」は愛へと呼べるものになるように思います。